英語のコツ

留学と海外生活の経験を共有します。

米国で働くー大学の専攻から

ビザが取りやすい専攻

自由の国アメリカというイメージの中で

ビザが取りやすい専攻を選んで

大学に進みましょうというのは本意ではありませんが

もし大学卒業後もアメリカに残り

現地で仕事をすることを考えている人がいれば

重要な事なので、覚えておくといいと思います。

 

学生ビザ(Fビザ)で大学を卒業した後に

とるビザは概ねHビザという

専門職の人におりるビザです。

 

簡単に言うと、大学の専攻と直結している職務内容であれば

おりるビザと考えてもらえればいいと思います。

 

以下、例を列挙します。

  • Education→教員
  • Information Technology→ITエンジニア、プログラマー
  • Accountng→公認会計士
  • Business→いわゆる民間企業
  • Law→弁護士
  • Medical School→医者

誰が見ても分かりやすい繋がりですよね。

 

この分かりやすさが重要です。

 

私は心理学専攻で卒業しました。

 

教育に従事している人であれば

心理学は、教育の場や企業の場でも普通に使っているものだと思いますが

職業に直結する場合、心理学→カウンセラー、精神科医、心理学の講師や教授

というような分かりやすい繋がりであればビザはおりやすいです。

 

しかし、アメリカでは、修士課程を卒業してても

専門の仕事が見つからないほどです。

博士号を取得してようやく見つかるか

または自分で開業するかといった世界です。

 

しかし、ITやビジネス専攻であれば

修士課程に進んでいなくても

民間企業での募集も多く見つけることが可能で

ビザもおりやすいです。

 

もし、将来何をやるかで迷っているけれども

留学はしたいと考えているのであれば

IT、ビジネス系、アカウンティング系、を専攻することを

お勧めします。

 

この専攻は、アメリカで学位を取得して

そのまま残っても仕事に就けますし

帰国してからも、専攻と職務内容に

繋げることができます。

 

気を付けて欲しいのが

医学部、法学部のような資格ものです。

 

公認会計士も資格はいるかもしれませんが

これは、日本に持ち帰ってもある程度役に立てることができるでしょう。

 

しかし、医学部や法学部は

アメリカで資格をとっても

その資格で米国以外では事業ができません。

少なくとも日本へ帰国するなら

日本の司法試験や医師免許の国家試験に受かっておく必要があります。

 

日本では、ニューヨーク州の弁護士資格を得ても

日本では無資格者と同じです。

 

医師会も法曹界も国内縛りですが

将来的に、こういう資格はクラウドに記録され

世界各地で業務にあたることができる世の中に

なってほしいと思っています。

 

弁護士は国により法律が異なりますが

手術をする人の体のつくりは

世界共通ですよね。

 

より実績を積んだドクターからアドバイスをうけ

治療を受けられるのであれば、それに越したことはないですよね。

 

問題は、法整備や保険の適用範囲ですよね。

アメリカの医療は、金持ちしか払えないのでは

と思うほどの高額です。

その金額をどこまで日本の保険制度がカバーできるか

現時点では何とも言えませんが

将来的には、アメリカにいながら

リモートでロボットの手を使い

術式を行えるのであれば

こんなに便利なことはないです。

米国で働く – ゲーム開発会社編

米国で初めてのフルタイム

時間給で働いたのはいくつかありましたが

就労ビザを取ってフルタイムで初めて働いたのが

ゲーム会社でした。

 

VAにあるオーナー企業で

MMORPGというジャンルのオンラインゲームを

開発していました。

 

当時、ゲームは西海岸で多く作られているんだろうと

思い込んでいたので、自分の地元にそういう会社があることに

驚きました。

 

同時に、自分は昔からずっとゲームをしていた人間なので

これはきっと天職だ!と思った瞬間でもありました。

 

まずその企業が出したヒット作は1作しかありませんでした。

当時は、オンラインゲームとなると月額課金制であるのが普通で

今でいうサブスク業態です。

 

こういう業態は、一定数の課金者がいないとリスクですが

課金ゲームが複数存在するのであれば

不労所得に近いものがありました。

 

入社した当時は、1作目完成から暫く経過していて拡張版で

課金者のモチベーションを維持していましたが

次回作の開発を進めていました。

 

ところが、途中まで進んだところで、開発はストップすることになります。

 

オーナーが、開発中の新作は5つ星とは言えないということで

開発を中止したのです。

 

5つ星でなければ発売しないというのが

当時のポリシーでした。

 

MMORPGは1作作るのに何年かかかります。

もしサブスクがなければ

実入りが少ないまま数年を過ごさなければならないということです。

 

そのため、時間だけでなく人件費もかかるのです。

その費用を取り戻すため、一流の期待感を作り出さなければなりません。

 

食べ物だったら、おいしいと思えば

毎日買うか、一度に複数買いますが

ゲームは面白くても1個しか買いません。

 

なので、発売日までにティーザーなどをチラ見させて

期待感を最大化するマーケティングを実施します。

一気に期待が高まったところで発売をすると

一度に多くの人が購入するわけです。

 

家族みたいな会社

今まで同族会社にはいいイメージはありませんでしたが

ここは本当に家族みたいな雰囲気がありました。

 

居心地が非常に良かったし

会社に行きたくて仕方がなかった

そんな環境でした。

 

これまででこんな感情を抱いた会社は

一つもありませんでした。

 

新作を出せば、社員全員に無償で提供されます。

 

毎年拡張版が出ていたので、毎年何かもらえました。

それがクリスマス時期で

毎年クリスマスが待ち遠しかったです。

 

買収の話が持ち上がる

今のMMORPGの先駆けと言われていた当社のゲーム業態が

人気を博し始め、韓国を含め様々な国でも開発されました。

 

そこで当社に目を付けたのがEAです。

 

EAは、ゲーム業界のBig Playerですが

悪名もありました。

 

買収されたら会社がなくなる

 

そんな異名を持った会社でした。

 

EAには、当時似たゲームはありましたが

MMORPGを開発しているスタジオは

ありませんでした。

 

概ね、スポーツ、FPS、シミュレーションなどが主流でした。

 

サポートセンターも独自に持っていましたので

私がいたサポートセンターは、この買収が決まってしまったら

職がなくなる、とそう思いました。

 

しかし、話を聞いたのは、まだ検討中という話であり

決定ではありませんでした。

 

日本のゲーム会社も買収先の一つではありました。

まだ日本のゲーム会社に買収された方が

現従業員も守られたことでしょう。

 

結局、EAが買収をしました。

 

買収直後には何の変化もなく

しいて言えば、私が担当していた日本サーバーが

閉まることになりました。

 

それ以来、私は米国サーバーのテクニカルサポートを

担当するようになりましたが

私が雇われた大義名分は、日本サーバーの担当者。

 

日本サーバーがなくなった今、必要のない経費なわけです。

 

そこで、部長に呼ばれ、解雇を告げられます。

 

人生で解雇されることはないと思い込んでいたので

まさか自分が...という思いでした。

 

なぜかというと、米国サーバーを手伝ってからも

パフォーマンスは非常に良かったからです。

 

直属の上司も、非常にいいずらそうに話を打ち明けていました。

 

後日談で、彼とチャットではつながっていて

久しぶりと声をかけたとき

あの時、私を解雇してから、自己嫌悪に陥っていたとのことです。

 

寧ろ、切るべき人が他にいたにも関わらず

日本というキーワードだけで私を切らざるを得なかったからです。

 

EAによる買収後のなりの果て

まず当時300名以上の社員がいたと思います。

私の入社当時だけでも200は超えていましたから。

 

まずは、成功を遂げたMMORPGの所謂生みの親が

退職をしました。

 

その後、私が単独でレイオフになりましたが

その後、サポートチームも

テクニカルサポートチームは一掃されなくなります。

 

インゲームサポートのみ、自社とEAのゲームのサポートを

両方受け持つため存続していました。

 

創業者は二人いましたが、その中でもオペレーションを担当していた人物は残り

開発を担当していた創業者も会社を去りました。

 

その後、数回のリストラが断行されます。

 

その間で、別の開発会社と一つになり

名称が更に変わりますが

最終的に会社はなくなることになります。

 

ゲームはEAが持っているのでサービスは

継続していますが、開発会社は

買収した企業の中で跡形もなく朽ち果ててしまいました。

 

当時の関係者は、多くが別のベーム開発会社へと移り

活躍していると思いますが、Activision BlizzardのWoWが

人気を博したのも、当社が開発した前身が

その土俵を確立させたからに他なりません。

 

当社が当時抱えた課題を解決されたうえで

満を持して発売されたのがWoWです。

 

ただいい話としては

こういう淘汰があるおかげで

新たなプレイヤーが新たな王となり

業界の流れを変えていっているので

そういう意味では、十分貢献したのだと思います。

 

当時は、月額課金からアイテム課金へ韓国勢は移行していた時期です。

もしアイテム課金へ移行していたら

かなりのユーザー数を誇っていられたと思います。

 

所謂、サブスクが今のインフラになっていますが

当時は先駆けです。

その先駆けの中でも、既に時代遅れになっていたわけです。

 

それが原因かどうかは分かりませんが

いずれにしても、世の流れにいい意味で逆行するのは

しんどいけど勝利に結びつく可能性がある。

 

しかし、今までのトレンドが変わっていく中で

過去のこだわりをぬぐえないまま進むと

暫くは、今まで通りに楽をできますが

あるとき、突然足をすくわれるといういい例だったのかもしれません。

 

私にとっては、初めてのフルタイムをくれた場所として

今でも心に深く刻み込まれています。

 

このフルタイムにつくまでに

1年半のバイト時代があったわけです。

 

この会社に入ったことが、後に永住権を取れるきっかけにもなり

業界問わず転職が可能になりました。

 

日本に帰国してから、解雇勧告を受けても

落ち込まず強気で次へ進む精神力を貰えたのも

もともとのきっかけは、この会社のお陰です。

 

そういう意味で、RIPを捧げます。

 

 

 

 

米国でバンド - ライブハウス編 - The Bayou

Zakk Wyldeのアコースティック

当時、Zakk Wyldeと言えば

Ozzy Osborneのギターということで知ってました。

 

高校時代にOzzy Osborneのカバーをやっていた時が

初めてZakk Wyldeを知った時期で

とにかく力強くパワフルなギターを弾くというイメージでした。

 

コーラスはやっていなかったので

謳う人ではないんだと思っていたんですが

渡米したての1996年にGeorgetownにあった

The Bayouという古い小さなVenueに

Zakk Wyldeと書かれてあり

Ozzy Osborneの曲をやると思い見に行ったんですよ。

 

ちょうどその頃にZakk Wyldeのソロアルバムが発売したばかり。

聞いてみると全編アコースティック。

 

いざチケットを購入したんですが

確か$8とかそのあたりだったような気がします。

 

このVenueでは$10以下のイメージしか残っていないです。

 

試しにThe Bayou、Zakk Wyldeで検索したら

当時のSetlistが出てきました。

www.setlist.fm

まさに、行った時のセットリストが出てきました。

クラブが小さいので、本当にZakk Wyldeがでかく見えました。

 

日本人からしたら、かなりの大物ギタリストを

超目の前で、しかも人があまり入っていないという状況で

見られるのはかなり貴重。

 

大物を下積み時代のような環境で見れたことは

後にMr. Bigでもう一度見たが

その2回くらいかもしれない。

 

因みにThe Bayouは廃業して今はありません。

米国でライブ見に行く - 初めてのライブ - AC/DC @US Air Arena

米国で初コンサート

実は、高校以来ずっとバンドでドラムをたたいてきて

しかも洋楽のバンドを中心にカバーしてきて

誰もが知っているAC/DCは、一度もじっくりと

聞いたことがなかった。

 

DCへ留学して初めてコンサートに行ったバンドが

AC/DCだった。

 

友人がAC/DCの大ファンで、メタルファンは私しかいませんでした。

一人でライブ行くのは心細かったので

AC/DCをいい理由にコンサートVenueを研究する日々が始まりました。

 

この時のVenueは、MDにあったUSAir Arenaというアリーナ。

USAir Arena

ここは、コンサートVenueとしても使われたけれど

当時のWashington Bullets、Washington Capitalsのホームアリーナでもありました。

これは、取り壊されました。

www.youtube.com

取り壊されてからは、DCのチャイナタウンのど真ん中に

アリーナができて、そこが当時MCI Centerとよばれ

CapitalsとWizzardsのホームになりました。

MCI-CE~1.jpg (30603 Byte)

MCI Center

 

もちろん、そこでコンサートも行われました。

 

MCI Centerのあとは、Verizon Centerとなり

Capital One Arenaになってるのかな。

Capital One Arena

 

コンサートに戻ると、AC/DCのコンサートは

非常にタイトでまとまりがあり、CDと遜色なく

殆ど曲を知らないのに、楽しめたライブでした。

 

かなりの数のライブを見てきた感想は

ライブでは演奏が下手になるバンドもそれなりにいます。

 

何をもって上手いというかは

個人個人定義が異なるので一概には言えませんが

私は、CDと同じような演奏を生で聞けることが

上手いと言っています。

 

ライブになると、アレンジ過ぎたり

CDでは、かなりのギターのテクニックなのに

ライブだとかなり弾けてないというバンドもありますが

場の勢いや盛り上がりでごまかせてしまう

ことがありますので、観客にはあまり分からないでしょう。

 

個人的にライブになると雑に聞こえるなと思うのは

メタリカのドラム。

 

メタリカは、ライブになると、ドラムがアレンジ過ぎる

感じがあり、ベースやギターがそのドラムに合わせているから

あっているように聞こえる。

 

でも、正直、メタリカのドラムは、最近のメタルドラマーが

叩いた方が上手い。

 

あとは、人気が出始めた頃のDragonforceというバンド

楽曲は、とにかくギターソロが長くテクニカルなバンドなんですが

当時のライブは、ギターの音はきれいに出ていなかったです。

 

今は恐らく上手になっていると思います。

 

コンサートに関して、一つ夢があり

クイーンのコンサートが見たいという夢がありました。

 

メタルばかり聞いていたにも関わらず

クイーンとピアノソロのアルバムは

個人的に非常に好きでした。

 

クイーンは、フレディー・マーキュリーが亡くなってから

アメリカに来ているので、ライブを見ることは

本当に夢の話でした。

 

しかし、ポール・ロジャースがボーカルとして

クイーン+ポール・ロジャースとしてツアーを回るときがあり

その時にVerizon Centerへ見に行った気がします。

 

ここで、夢がかなったわけです。

 

フレディー・マーキュリーには勿論会えませんが

クイーンを見ることは叶ったわけです。

 

あとは、Van HalenにSammy Hagerがギリ残っていた時期に

Verizon Centerで見たような気がします。

 

その後、Dave Lee Rothが一時期戻ったときの

ツアーも見たんですが、Sammy Hagerの時の方が

ヒット曲を多く演奏してくれて楽しめました。

 

日本にいると海外アーチストは

アルバムリリース時期にしか来ないイメージがありますが

アメリカの場合は、年に数回戻って来てくれます。

 

アリーナ規模の単独ツアーはそれほど戻ってくるイメージはありませんが

クラブツアーなら、Venueを変えて年に2回は最低戻ってきます。

 

パンテラというバンドを年に2~3回見に行った記憶があります。

 

チケット代も安いので簡単に行けてしまうところも良く

また日本にいた頃は、電話予約でなかなか取れなかったイメージがありましたが

アメリカでは、全てオンラインですぐに取れます。

 

チケットが販売開始して

すぐ売り切れて購入できなかった経験はなかったです。

 

それ考えると、日本の電話予約は異常なのか

受ける側が本当に電話が少ないのかよく分かりません。

 

アメリカの方が人口が多いんだし

同じように予約困難が起きてもいいんですが

まずほぼなかったですね。

 

ということで、ライブ好きにはアメリカは吉という話でした。

 

米国でバンド - ライブハウス編 - 930 Club

DCのBest Concert Venue

930 Club

DC界隈に住んでいる人が

DCでベストなコンサート会場はどこ?と聞かれた場合に

答えるクラブの一つが930 Club。

 

ここは、どんなジャンルでも一度は聞いたことのある

知名度の高いバンドが必ずクラブツアーで訪れる場所。

 

音響設備、箱のサイズ、アーチストの選定、全てがベスト。

 

ここでみたバンドは数知れず

本当に楽しめるクラブの一つ。

 

まだ留学したばかりの頃に

このクラブを発見して

事あるごとにライブを見に行っていました。

 

マイナーなものからメジャーなものまで

ブッキングしてくれるし

クラブ規模なので入場料も安く

平均$20台。

 

日本で洋楽のコンサート観るなら

1995年以前は、基本的に5500円が相場だった。

 

その時代に渡米し、初めてクラブで見たライブは

Biohazardというバンド。

そのバンドが今はなき、The BayouというジョージタウンのVenueに来た時

わずか$8のチケットで楽しんだ。

 

そんなバンドも日本で見れば

5500円取られた時代だ。

 

しかも$8で複数のバンドが見られる。

 

アメリカは、ワンマンライブなんてものは

殆どない。

 

数多く見た一つのバンドの中に

デフトーンズというカリフォルニアのバンドがある。

 

初めて見たのは、Kissを見に行った時の前座をしてた。

 

楽曲もまるで異なり、浮いているように見えた

全く人気があるようには思えないバンドだった。

 

基本的にボーカルは歌う必要がなく

音程がないのが当時のNu Metalの特徴。

 

ギターソロのないバンドを初めて見たのが

デフトーンズだった。

 

その後、パンテラの前座でも見た。

 

そのうち、Ozzfestにも比較的最初のスロットで登場していたが

いつの間にかクラブでは満員になり

ミュージックフェスでも顔なじみになった。

 

10回以上は見たと思う。

 

そんなデフトーンズも930クラブで何度も見た。

 

しかし、そんなデフトーンズ、売れない頃は

クラブに10人もいないだろうという客の前で

演奏をしていたという。

 

場所は、DCにあるBlack Cat

 

このBlack CatFoo Fightersのボーカルが

オーナーの一人でもある。

今は分からないけど。

Black Catもそれなりに知られたVenueだったけれど

知らないバンドばかりがブッキングされていた。

そこが930と違うところ

 

930クラブは、色々なジャンルの知られているバンドをブッキングしてくれる。

 

このクラブの2階の階段近くが自分のいつものベストポジションだった。

 

当時は、Ozzfestで新人バンドを見つけて

単独ツアーを回る際に930でフルライブを見るのがパターンだった。

 

Ozzfestも終わるころには、チケットは高くなったけど

初めて見たOzzfestのチケットは

確か$35くらいだったような気がする。

4バンドだったかな、最初は。

 

みるみるうちに大きなフェスになって

最後はKnotfestにとって代わってしまったけど

上手く引き継げていると思う。

 

そんなわけで、アメリカはライブを見るのに

非常にいい環境が揃っています。

 

 

 

米国でバンド - ライブハウス編 - Jaxx

有名バンドも来るライブハウス

Jaxx Night Club at Springfield VA

ここも廃業になってしまったんだけど

当時、自分たちがライブをするVenueの中では

ツアーミュージシャンが常に来るようなVenueでした。

 

日本で有名なアーチストでいうと

Mr. Big

Sonata Arctica

Stratvarius

Sebastian Bach

Black Label Society

など

 

ここで覚えているのは

自分たちが大抵順番が最後だったのだということと

 

自分たちの順番が回ってきたころに

バーテンダーがバーを閉め始めること。

 

今でも鮮明に覚えている。

それだけ人が入っていないということ。

 

音響などのシステムは

海外も含めてつアーチストもご用達だったので

機材等は悪くないんだと思う。

 

オーナーは、弁護士の方。

でも運営には苦労していたんだと思う。

 

ライブが始まる前にオーナーが

短いトークをしてバンドを紹介するんだけど

契約更新が近づくと

経営が苦しいから更新するか分からないというようなことは

よく言ってました。

 

遂に契約を更新せず

EMPERORといういう名前で

新しいManagementが引き継いだけど

それほど長くは続かずに廃業。

 

このVenueでショッキングだったのは

自分が高校の頃にカバーもしていたMr.Bigが来たとき。

 

日本では、あれだけの人が集まるバンドでも

アメリカのVAでは、このVenueのキャパの半分以下くらいしか

人が埋まっていない。

 

下手すると、自分のバンドが読んだ客と同じくらいの客数?

てくらいの数しかおらず、Mr. Bigという名前の別バンドが

出てくるのかと思ったくらいに少なかった。

 

出てきたら本物だということが分かったけど

アメリカでもMr. Bigは東海岸では全然人気がなかった。

 

それは結構ショッキングな事でした。

 

このVenueは、よくデスメタルやヨーロッパメタルも

よく来てくれたので個人的には非常に好きなVenueの一つでした。

 

客としてもバンドとしてもお世話になった場所でした。

 

本当にお疲れ様でした。

米国でバンド - ライブハウス編 - Brass Monkey

Fells Point(フェルズポイント)

Brass Monkey Saloon

ボルチモアでFells Pointというと

夜にお酒を軽くの見に行ったり夕食を食べに行ったりするような場所。

 

その一角に長いことライブができるVenueとして

存在していたのがBrass Monkey Saloon。

 

Venueとしてとびぬけていいということはない。

Hal Daddy'sと同じで、有名どころはここではライブをしなくなるため

ローカルバンドなりたてのバンドに対しては

比較的快くブッキングしてくれるVenueでした。

 

今でも鮮明に覚えているのは

自分のバンドがここでライブをやる時間帯はいつもラスト。

 

その前のバンドを友人を連れてきていて

それなりに人で埋まっている。

 

自分のバンドの番になると

その人たちは引けて、一気に人気がなくなり

ライブなのに、まるでリハーサルのように

バーには人がいない。

 

まさにバーテンダーのために演奏しているような感じ。

 

このVenueでいつも言われたのは

非常にまとまったパフォーマンスができるのに

集客ができないのは残念だね

 

という言葉。

 

大抵、バンドメンバーの地元の仲間を

呼ぶことが多いのに対して

日本から来た自分にとっては

そういうベースがない。

 

ギターもブラジルから来ている人で

呼べるほどの友人もいなかった。

 

頼れるとすれば

ボーカルの知り合いを何人連れてこれるかくらいだった。

 

ただ、友人、家族はFanではないから

それ以外の人間をいかに集めるかが重要だった。

 

今のようにYouTubeはまだなかったころ

動画を作るのであれば

DVDに焼いて配らなければならない。

 

そういう時代だった。

 

今という時代に活動をしていたら

人気が出ていなくとも

認知をさせる方法は、当時よりも何倍も多くあると思う。

 

このVenueもWikipediaには掲載されていないくらい

誰にも知られていない。

 

Gooleで検索すると

廃業と書かれてあり、物件も売りに出されている。

 

Facebookも2010年で止まっているから

そのあたりに廃業したのかな。

 

でも、何度もお世話になった場所であることは変わりなく。

 

自分の歩んだ場所がなくなるのは残念だけど

受け入れてもらえなかったら

あそこまで続けていられなかった。

 

感謝です。