英語のコツ

留学と海外生活の経験を共有します。

留学1年目 - ライブラリーしか行かない日々

どこに行っても楽しめない

一年目は、英語が話せないことが、出不精にさせていました。

 

話せなくてもウィンドーショッピングくらいはできると思います。

 

それでも、万が一、話さなければいけない状況が来たらどうしよう的な思いが

 

外出をさせなかったです。

 

毎日、ライブラリーしか行かない。

 

そこで教科書を読むんですけど、面白いくらいに試験では、点数が悪い。

 

一体、ライブラリーで読んだ内容は、どこへ行ったんだ、という感想しかない。

 

これは、つまり、勉強の仕方が悪いということ。

 

浪人した時も、勉強しかしていなかったのに、最終的にどこの大学にも受からなかった。

 

今考えると、受験料てバカにならない。

 

その結果が全滅+一年浪人の費用…本当に浪人することは正しかったのか

 

今でも分からないです。

 

ただ、良かったことは全滅したこと。

 

どこかに受かってしまったら、その大学へ行っていたわけで

 

英語が今のように話せることもなければ、視野も狭いままだったと思います。

 

合格発表は、まだ残っていた時に、父から

 

アメリカ行ってみない?」

 

と言われました。さらに

 

「どうせ合格発表待っても受かってないだろう?」

 

とも言われてぐーのねもでない状態。

 

「日本で受入れられないんだから外国に行ってみたら」

 

と言われたときはショックでしたが、今考えれば

 

あの非常な言葉が人を動かしたともいえます。

 

その言葉を聞いたのが2月、米国へ旅立ったのが5月。

 

実に早い決断でしたが、同時にかなり大きな決断だったと思います。

 

全く話せない状態で行ったので、アメリカの空港でイミグレーションを通るとき

 

相手の言っていることも殆どわかりませんでしたが、Study?と一言言われ

 

通してくれました。

 

さて、ライブラリーの話に戻りましょう。

 

勉強の仕方が悪いというくだりまで戻ります。

 

このライブラリーと試験の結果の経験から

 

なぜ浪人してすべての大学を滑ったのかがよく分かりました。

 

結論は

ノート取り杉

今、日本に帰国して、再び思うのは

 

ノートがきれいに残すものとして親しまれている。

 

アメリカは、ノートに書いたものは、別に残すものではなく

 

会話の中で忘れないように記録しとくものにすぎない。

 

それがノートの全てです。

 

日本のノートは、紙質が良かったりしますよね。

 

ちょっと厚めだったり

 

アメリカのノートは、薄っぺらいし、日本に昔あったわら半紙に紙質が似ています。

 

Hの鉛筆で強く書いたら破けそうな質です。

 

これがアメリカのノートで、大事なところをメモして

 

試験が終われば破って捨てるのがノートです。

 

だからカラフルにノートづくりなんてしないし、重要なところがあれば

 

二重下線を引くだけ

 

日本では、このノートづくりが勉強の一部と思い込んでいました。

 

ノートづくりは、作業であって暗記もできない。

 

勉強ではないです。

 

勉強は、問題を解いているときだけ。

 

予備校の授業も、授業を受けるのは、会社で言う「会議」と同じ。

 

会議って仕事をしているように感じますけど、生産性がありません。

 

ただ、決定事項を伝えるか、議論が必要な時は、必要なものです。

 

日本によくある、情報シェアのための会議は

 

時間を無駄にしている究極のイベントです。

 

だから会議の多い会社は生産機会を逃していると思います。

 

ライブラリーでは、生産はありませんが

 

その代わり書物の内容を理解して記憶に蓄積させる場所。

 

ノートに取っていたら蓄積はされません。

 

試験勉強が1週間あると、大抵平日5日間ノートを作っていたような気がする。

 

振り返ると、作ったノートは試験間近でも見ることがない。

 

最悪なことに、試験ではノートが開けないわけで

 

開かない状態で教科書に書かれてあった情報を呼び出せない。

 

さて、そんな私も、論文形式だけは得意でした。

 

本をノートに取っていた作業は、論文に必要な引用を見つけるのがうまいわけで

 

とにかく、論文形式のものは、進みました。

 

答えを常に見ながら書き上げるし

 

どこから答えを引用したかも記入しなければならない。

 

その論文で覚えたことがあります。

 

自分の意見を書いていくと、赤ペン先生されることでした。

 

意見言ったらいけないの?と思いましたけど

 

文献からテーマに関係ある個所を拾って

 

組み立てていくことに徹した時、非常に評価が良かったです。

 

もっと言うと、シンプルである必要があるということです。

 

シンプルで、伝えたいことを、3回違う書き方で伝えます。

 

よく売れる書籍みたいに、論文の序盤に結論が来ます。

 

中盤に根拠が組み立てられ、2度目の結論が来ます。

 

終盤は、組み立てたことををさらにシンプルに言い換えて、3度目の結論です。

 

「鬼のパンツ」が論文のテーマだとすれば

 

論文の序盤に「いいパンツ」と言い切ります。

 

中盤で、その根拠は「強いぞ~、強いぞ~」であるからです、となります。

 

また、「トラの毛皮でできているから、強い」

 

だから、「皆が、はこう、はこう」となって、皆って誰?の問いに

 

「あなたも、私も」です、となり、中盤の最後で、

 

「だから鬼のパンツは、いいパンツになのです」となります。

 

日本では、教科書の説明が難しく感じます。

 

米国では、教科書の説明が分かりやすいです。

 

中学生レベルの英語だけでほぼ書かれています。

 

専門用語も、中学生レベルの単語の組み合わせが多いです。

 

日本人の考え方が回りくどいのは、書物が影響していると思います。

 

書物や、勉強の内容がシンプルだったら、もっと合理的な国民になったことでしょう。

 

アメリカに住まなければ、こういう考え方をすることはありませんでした。